意味があるかもしれないし、ないかもしれない話
寝る前、歯磨きをしながらTVをぼんやり見ていたらマツコDさんが
「わたしたちはすぐに意味を求めたがってしまうのよね。別に意味なんてなくていいのよ。」と言っていた。
最近「子どもが描いた絵に対して「何を描いたのかな?」なんて聞いたらダメ。そこで立ち止まって自由にできなくなる」という話などを目にして「意味なんてない」と言ってもいいんだよ、見栄なんてはらないでいいんだよ、という空気を感じる。
もはや意味がある事が前提すぎて、意味はないです というコメントをするだけで笑いが一つとれるほどだ。
作品を作る事に関しては、デザインを生業とする身からすると意味ない物など提案は1000%できないため芸術とデザインは近いようで一番遠い位置にあるものだと改めて感じる。個人的には意味のない芸術は芸術なのか?とも思うけど、子どもの成長に関することとそれとはまた別なのだろう。
意味、意義あることを重ねてきたつもりでいたが、あらゆる決断の岐路に立つ度に今まで考えてきたことに意味なんてなかったなと思う時がある。
本とコーヒーと展示のある店、しかも祖父母の家を使わせてもらってやってるなんて意味しかないように感じられるし自分もあれこれいろんな意味を心の中に抱えて過ごしている。実際、家でぐつぐつ考える用のノートにはめちゃくちゃそれっぽいことが書き出されている。
それでも改めてなんでこれ始めたんだ?と考えると「え…単にやってみたかっただけ…」なんだよな。
罹災した後の取材でも「今後はどうしていきたいか」と聞かれる度に「〇〇ために頑張りたい」とか言ったほうがいいんだろうなぁ…と思いつつ1年経った今も「なんもわかりません」と気の利かない回答をしてしまう。
取材を受けた日の夜はだいたいシャワーを浴びながら「うわ〜もっとこう言えばよかった〜〜」と独り言を叫んでいます。
もっと言うと人が生きてる意味が解明されてないのに(哲学界ではされてるのかもしれないが)それより解明する価値の低い私のやりたいことの意味意義なんて必要ないじゃないかと思う事がよくある。それは単に誰かに説明できるように、変に思われないように準備している気持ちの整理整頓であり、世界に自分一人しかいないのであればそんな意味の見い出しは不要である。
それでも常日ごろに思うわけでもなく、意義があることで「うおー!やったるでー」ということも勿論あるのでそのモチベーション維持には必要なことなのかもしれない。
あった方がいい今すぐZINEでも作りたいと思う日もあれば、なくたっていいとりあえず帰って韓国ドラマ観ようという日もある。
以上